ジーン・ボーウェン インタビュー in May.2007

●どのように音楽を始められましたか?影響は?

私には2人の兄がいて、1人は50年代のビート族で、その兄が座り込んで何時間もラジオにあわせてボンゴを叩いていた。もう1人は、私にギターとトランペットの基礎を教えてくれた。学校のブラスバンドではトランペットを吹いて、サーフバンド、のちにフォーク、ブルース、カントリーを演ったバンドではギターを弾いていた。クラシックに惚れ込んで、カリフォルニア・アート・インスティテュート(CalArts)で、メル・パウエル、レオナード・スタイン、モートン・サボトニックといったとても立派な先生とともに作曲を学ぶこととなった。
CalArtsで、4年ほど教えていたハロルド・バッドとはすぐ友達になった。我々は、ジェームズ・テニー、ダニエル・レンツ(カリフォルニア・タイム・マシーン)、ウォルフガング・ストーチェルやジョン・バルデサリのようなアーティストの中で活動していた。ハロルドは、大作に対するリアクションという意味で、とても神秘的な「小作品」を異なるスタイルで書いていた。これが、私のフォーク・ミュージックやアートソングとしての「歌形式」の感覚にマッチしていた。ロルカ、タゴール、マラルメ、古代アステカのもの、電気的に操作する詩人、歌ったり、ハルモニュウムを弾いたりするアレン・ギンズバーグのように、他の文化の詩から音楽までを「細密画」調に書いていた。我々は共に、1971年、メキシコにおける最初の電子音楽をグアダラハラ大学で演奏した。


●このアルバムは、ハロルド・バッドとどのように製作されましたか?

70年後半にハロルドは、ブライアン・イーノとコラボレーションし始めた (Pavilion of Dreams)。私は、CalArtsで電子音楽を作曲していたので、レコーディングの環境がすぐそばにあった。我々は、そこのスタジオでAmbient #2: Plateaux of Mirror (邦題:鏡面界)を録音した。また、のちにアルバム「Abandoned Cities」となる楽曲を私の小屋スタジオでもたくさん録音した。 私は、イーノにOld Rugged Cross スタジオのことを説明するため手紙を書いた。Old Rugged Cross スタジオとは、通常の商業的なレコードではないもののために喜んで行うエンジニアの好意で、「オフ」の時間帯にそっと録音されるというコンセプトであるということを。(その時、イーノは、香水の実験をしていて、私は、フィルモアの小屋スタジオから新鮮なオレンジの花を送った。) すべてやってくれたメルウィン・ベリンのおかげで、彼とダグ・シュワルツがものすごく手伝ってくれた。Old Rugged Crossは、私の母のお気に入りの賛美歌でもあった。
Ambient #2の成功の後、私はハロルドにレコード・レーベルを始めて、我々の音楽をリリースするように勧めた。私は、ちょうど地元のフォーク・ミュージック(ヴェントゥーラ郡のフォーク・ミュージック)を芸術国家基金でプロデュースしていたので、レコード製作の始めから終わりまでの全プロセスを知っていた。私は、10枚ほどのレコードを製作するだけの十分な資金を借りる申し出をしたが、ハロルドはだれからもなにも借りたがらなかった。そして、1回に1枚作ることに決め、自分たちで資金をまかなった。このようにして、キャンティル・レーベルが始まった。モハベ砂漠の町から有名になった。我々は、「The Serpent (in Quicksilver)」と「Bourgeois Magnetic」を最初にリリースした。ハロルドは、次に「Abandoned Cities」を出したが、自分たちで資金を調達しなければならず、その後リリースすることはなかった。


●このアルバムのテーマは?

アルバム「Bourgeois Magnetic」は、自分の音楽的で詩的な経験を美しいパッケージ、彫刻、反響する音、言葉、映画で包み込んだ表現だった。オープニングとエンディングの曲は、「トルマリン」と「アメジスト」という宝石のセットの曲。私は、とてもエスニック・ミュージック、フランスの詩、映画、エリック・サティの哲学的なコンセプトとダダイズムに影響を受けた。私をヨーロッパのアートに開眼させてくれた詩人、エメット・ウイリアムス (Pulsaのメンバー)に幸運にも私は会うことができた。 「A Bride and Her Bachelor」は、デュシャンの「大ガラス」からの引例で、テーマの旋律は、トリュフォーの映画のサウンドトラックからとられた。弾むようなピアノのグルーヴは、ゆっくりと過激さに導く。サブタイトルの「4 p.m. e. L.A.」は、パメラ・シェリダン(ジャケットの裏の写真を撮った)捧げる暗号。このオリジナルの12inch EPレコードは、より良い音を追求するため45回転で作られた。多くの人が知らずに33回転でそれを聴いて、ボーカルが入ってくるまで気付かないというレコードで、それ自体パフォーマンス・アート/彫刻になっていた。
詩で曲である「Bourgeois Magnetic」は、「ブルジョア」(私の好きな曲の一つにレッドベリーのブルジョア・ブルースがある)によるアートや文化の崩壊のイメージによって不条理性を表現したもの。世界の端まで、アートや特に音楽を売り込む貪欲さが蔓延している西洋文化の執着を表現するため「In the phase of a dynasty」を作った。60年代以来のロックの終焉でもあり、大きな会社がレコードを売る唯一の理由のため、アートとリスナーをコントロールすることを見いだした時代でもあった。個々の人々がアートと音楽の世界の風景に入ってくことが許されたインターネットの到来と共に、我々は今、まさにこの巨大なマシーンの分析結果を見ている。それはよりスマートな方向へ向かうための「concrete analysis, concrete reality」(ミュージック・コンクリート、具体詩の引例)ということを喚起させる。


●基本的にあなたは歌を歌って、ギターを弾いていますが、これについてはどうですか?

私は、ギターを兄から教わった。私は1950年にミシシッピー州のBiloxiで生まれ、ネバダ、コロラド、サウス・ダコタ、イリノイ、サウス・カロライナなどアメリカ中を動き回るミリタリーの家族の中で育った。11才の時には、日本の三沢基地で過ごした。私の兄は、確か私が思うに、「cat's meow」つまりテスコのギターを買った。彼がロカビリーのリフやフォークソングを教えてくれた。
日本を離れた後、我々はカリフォルニアに落ち着いた。そこで、私はサーフ・バンドを組み、後にフォーク/ブルース、カントリーなどもやった。ギターを弾くこと、曲を作ることは天性だ。私はいつもバンドに参加したり、曲を作ったりしてきた。「Chesterfield Kings」と呼ばれるウェスタンのバンドをやっていたり、フランスから「parts and labor」というタイトルのアルバムを1枚リリースした「The Mechanics」というバンドをやっていたり。
ハロルド・バッドのアルバムでエレクトリック・ギターを弾いたり、The Doorsのドラマー、ジョン・デンスモアとコラボレーションをした。このコラボレーションでは、アフガニスタンの戦争に反対して曲を作り、ロサンジェルスのRAWA(Revolutionary Association of the Women of Afghanistan)のデモで演奏し、Hen House Studioで録音した。
ギターは、私のレコーディングで欠くことのできないもの。私は、「The Vermilion Sea」(ボーウェンのソロアルバム)の中の「Tears」というアフリカン・チューンの曲でギターをフィーチャーした。「Organic Soup」という子供のための音楽で、デンスモアがドラムを、私の妻であるドミニク・アレクサンドラが歌い、私がギターを弾いた。








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